ある時、訪米した日本の大臣が「貴国と日本は縁が深い。日本では貴国を米国と呼び、日本の主食は米である」と発言して、通訳の方を困らせたという話があるそうです。

私にも記憶があります。日本と米国中西部9州の企業経営者や知事が相互交流を図る「日本・米国中西部会」で挨拶した時、いろんな話をしながら、「いまいち」であるということを「日光の手前」と日本語で言いました。今は日光市の一部になっている今市にかけた言葉遊びのつもりでした。通訳の方が困ってしまって、とりあえず皆さんに「笑ってください」と同時通訳してくださいました。皆さんが笑っているので、これはうけているものだと私は思ったんですが、実は通訳の人が笑うことを頼んだから笑っていただけでした。

このように、翻訳する適当な言葉がない場合もあれば、同じ発音が全く異なる意味になってしまう場合もあります。インド南西部のトゥル語で「カレル」と言うと、「肌についた、締め付けるもののあと」という意味らしいです。日本語では「枯れてしまう」という意味であります。また、湾岸戦争当時の日本の首相のカイフ(海部)という名前が、アラビア語で「臆病者」という意味であるということで、当時、話題になったことを記憶しております。

いずれにしても、こうした発音と言葉の意味が偶然重なって、難しい話になったりすることもありますし、また日本語でも、なかなか説明ができない言葉があります。

私たちが自然に使っている「しとしと」や「ザーザー」といった擬態語、「もったいない」や「おもてなし」、「木漏れ日」といったような言葉も外国語に訳すことは難しいと言われております。したがって「OMOTENASHI」とか「MOTTAINAI」のように、日本語がそのまま英語になっているようです。

言葉はそれを使っている集団が長い時間をかけて培ってきた固有の感性を反映しています。まさしく文化の一つと言えます。このため異なる集団間で共有することが難しいということが言えるかもしれません。