月刊「味の手帖」の3月号に、歴史作家の加来 耕三(かく こうぞう)さんの興味深いエッセイが掲載されていました。「島津 斉彬(しまづ なりあきら)と昆布ロードが明治維新を成し遂げた」というタイトルです。
加来さんはこのエッセイで昆布について、「これほど長い輸送路を通って、食膳にもたらされる食材は、日本史上にも珍しかったに違いない。」と記しています。
平城京に都ができて間もなくの霊亀(れいき)元年(715年)頃、続日本紀に昆布は「夷布(えびすめ)」と記されていました。また、万葉集には海藻の総称として「玉藻(たまも)」という美称が使われていましたが、東大寺の「正倉院文書」にも10を超える海藻類が述べられた中で、昆布は一番幅が広く、長くて、味の良いものとされていたそうです。
江戸時代、この昆布の産地といえば、羅臼(らうす)、利尻(りしり)などの蝦夷地(えぞち)が代表格でした。北前船が松前から積み出し、敦賀(つるが)で荷揚げされたものが、近江路を通って京都にもたらされたそうです。
また、北前船が大回りをして瀬戸内海を経由し、終着地である大坂(後の大阪)に荷揚げされたものもあります。そのため、昆布の問屋は大坂に集中していたそうです。
ところが昆布は、採れないはずの越中でも食され、独自の昆布文化を持ち北前航路ではない琉球でも、日常の食卓に供されていたそうです。
では、誰が昆布をこれらの地域に運んだのか。実は「越中富山の薬売り」で有名な越中商人たちです。彼らは幕末に、北前船で運ばれた昆布をルートから外れた薩摩藩に持ち込み、それが琉球経由で入ってくる清国産の漢方薬の原料と交換する貿易に使われていたそうです。
当時清王朝では甲状腺障害による風土病が流行しており、その予防のためヨードを多量に含んだ昆布を必要としていました。ただ残念なことに、清国周辺の海は水温が高く良質の昆布が育たないため、入手は困難だったそうです。
こうした昆布を用いた貿易ルートをしっかり確立したのが、薩摩藩11代藩主の島津 斉彬公でした。斉彬公が昆布ロードを開拓・維持することがなければ、おそらく薩摩藩は明治維新の主力と成り得なかったと加来さんは述べています。
当時、富山の売薬人(ばいやくにん)は、全国を22ブロックに分け、各々で仲間組をつくって販売していました。その一つに薩摩藩内で売薬を行う商人団「薩摩組」がありました。
まだ、世子(世継ぎ)であった斉彬は、「薩摩組」に鹿児島町年寄の木村 喜兵衛(きむら きへえ)を仲介人として総額500両の資金を援助し、昆布の運搬を許可しています。薩摩藩が昆布を買ったことが幕府にばれないように、喜兵衛という仲介を挟んだとのことです。越中からの売薬商人・密田(みつだ)家の所有する船が2隻、薩摩の山川港に入港したという記録も残っているそうです。
こうして巨額の富を蓄えた薩摩藩は、その財力を生かして近代化に成功し、明治維新の原動力となりました。2月28日(木曜日)のブログでも触れた斉彬公ですが、リーダーとしての先見性や見識の高さには頭が下がる思いです。