週刊東洋経済2月9日号の記事の中に「不適切統計問題に見る『平常バイアス』のワナ」という小論がありましたので御紹介します。
厚生労働省の不適切な「毎月勤労統計」は失業保険、労災保険など約2,000万人分の給付金額の誤りにつながりました。さらに、国家予算の修正、景気動向指数の見直しなどを巻き込む大問題になっていることは御承知のとおりです。なぜこんなことが起きたのか、「平常バイアス」あるいは「正常性バイアス」などともいわれますが、それが根底にあるのではないかという指摘です。

昨年11月27日(火曜日)のブログでも取り上げましたが、危急に対し少なからぬ人が漫然と時を過ごし遭難する場合があることが、災害時の行動研究から分かっています。人生において非常時は滅多になく平時が圧倒的に多いため、私たちの本能行動は平時に適応しており、その「平常バイアス」が非常事態発生の認識を遅らせるそうです。

火の手が上がる、警報が鳴り響くなどのシグナル情報の変化がない場合には危機感は更に生じにくくなります。人間に限らず、動物の感覚は刺激の強弱以上に刺激の変化に反応するので、強い日差しの下では昼寝ができても激しく明滅する電球の下では眠っていられないそうです。
こうした原理から、ルール違反が長年継続してきた場合、その状態に慣れてしまって最初に逸脱した時以上にその評価が過少になってしまうと説明しています。

つまり、最初におかしいなと思っても、それが継続しているうちにおかしいなということすらも思わなくなってくる、それが「平常バイアス」のワナということになるようです。
俗にいう慣習化された過ちは、誰も過ちと認識しません。みんながやっていることですから、怖くもなければ良心の痛みも感じません。最初の段階で良心の痛みや問題点についていろいろ議論をしなければ、後はもうそのままになってしまいます。

改めて「平常バイアス」の話を聞くと、私たちの日常の中にもよくある話だなと思わざるを得ません。
いわゆる「ぬるま湯に浸る」、あるいは「茹でガエル」という話です。冷静に、客観的に物事を見る目を養いたいものですね。