2016年「地方行政9月号」のコラム「一家言」の資料が出てきて、改めて読んでみました。コラムによると、「江戸時代には藩という名称はなかった」ということです。
私たちは現在、江戸時代の大名領のことを「藩」と呼び、県内でも川越藩や忍藩などと呼んでいます。
ところが、藩という名称が一般に使われるようになったのは明治になってからで、その藩名は明治元年(1868年)に政府が決めたものだそうです。
それでは江戸時代どのように呼んでいたのかというと、長州藩のことは毛利大膳大夫領分(だいぜんのだいぶりょうぶん)、薩摩藩は島津修理大夫領分(しゅりのだいぶりょうぶん)というように、大名の官職名と大名領を指す「領分」を合わせて呼んでいたようです。
明治政府は、政体書の公布により地方統治を府藩県の三治制とし、幕府直轄領のうち城代、所司代、奉行の支配であった地方に「府」を、郡代や代官の支配であった地方に「県」を置き、大名領を「藩」としました。
一国に数藩あるところが多かったため、藩の名前は最終的には大名の居城や陣屋の地名としたようです。例えば、鹿児島県であれば鹿児島藩、山口県であれば山口藩などとなっていたとのことです。ですから、現在よく聞く薩摩藩、長州藩という藩名は公式名称ではないようです。
昔の国名を付け、国持ち大名であることを誇示するため俗称として使われたのかもしれないとの話は、いやはや驚きです。