去る2月5日(金曜日)、「知事のとことん訪問」で、滑川町の特産品「武州ころ柿」の復活を目指した取組を視察しました。

 滑川町では明治の中頃から「ころ柿」と呼ばれる干し柿が生産されていました。「武州ころ柿組合」が結成され、昭和15~16年のピークの頃には、生産農家が70軒あまりで約100万個の生産量があり、地域の特産品として東京市場へ出荷されていたそうです。その後、戦後の高度成長の中、生産者は減り続け、ついに1戸だけになり消滅の危機に陥ってしまったそうです。

 そこで、滑川町や町民が中心となって、武州ころ柿復活に向けた取組が開始され、平成25年7月には「武州ころ柿復活&グリーン・ツーリズム推進協議会」が設立されました。唯一の武州ころ柿生産者である小澤利男(おざわ としお)さんが会長に就任されて、生産技術の普及や新商品の開発、販路開拓などに取り組んでこられました。埼玉県の農商工連携フェアにも出展しており、とうとう6,000個まで販売できるようになりました。平成27年にはJAの直売所ですぐに完売したそうです。

 武州ころ柿は、練炭での火力乾燥をはさんだ前後各2~3週間、毎日、天日干しを行い作られます。この間に柿の水分を均質化させ、乾燥を促すため、丹念に手もみ作業を行うのも特徴です。こうして一つ一つが丁寧に作られたころ柿は、大変美しい飴色でもちもち感があって、後を引かない甘さが特色であると感じました。

 この取組は、滑川町をはじめ、町議会、JA、農産物生産者組合、町民、専門家、NPOなど大変多くの人たちの関わりの中で、地域の特産品としてのころ柿を復活させるばかりでなく、地域の耕作放棄地を減らすための取組としても行われています。確かに高い値段に見合うだけのすばらしい逸品ですので、今後大きなブランド品としてヒットする可能性は十分あると私は思いました。

 ちなみになぜ、「ころ柿」と言うかについては、諸説があります。一般には、天日干しをしている皮をむいた柿が、丸くてころころした感じであるので「ころ柿」と言われたという説や、あるいはまんべんなく天日干しをする際に裏にしたり表にしたり転がすことから「ころ柿」と言われたとする説などがあるそうです。ところが、私が小澤会長にお聞きしたところでは、漢字で「枯露柿」を書いたところに真の意味があるとのことです。「枯れた露の柿」。つまり、水分の多い渋柿を天日干しをしたり練炭で乾燥させたりして、汁を取って乾燥させる作業工程を漢字で示す「露が枯れる」を柿にかぶせて「枯露柿(ころがき)」と表記されていたそうです。

 将来、武州ころ柿がピークの頃の100万個に及ぶ地域の特産品として成長することを願ってやみません。