一万円札の新たな「顔」になる本県深谷市出身の渋沢栄一翁は、生涯で500もの企業の創設に携わったことから「日本資本主義の父」と言われています。
渋沢翁はやみくもに数多くの事業を興したのではありません。社会を豊かにするために必要な事業を、順序も考えながら進めていきました。

渋沢翁は1867年にパリ万博の視察でフランスを訪れた時の経験から、あらゆる事業を盛んにして国を発展させるには、人々の知識を高める書籍や新聞などの印刷物の普及が必要だと感じていました。

そこで渋沢翁は、まず1873年に洋紙を大量に製造するための「抄紙(しょうし)会社」を設立します。この会社は現在の王子製紙株式会社の前身です。
次に、1876年に近代的な印刷会社「秀英舎」を設立します。これは現在の大日本印刷株式会社の前身です。
同じく1876年には「中外物価新報局」という新聞社の設立に携わります。これは現在の株式会社日本経済新聞社になっています。
その後の1887年には、現在の日産化学株式会社へとなる化学薬品会社「東京人造肥料会社」の設立にも携わります。これにより紙を漂白できるようになりました。

一方、渋沢翁は1878年に設立された東京商法会議所(現在の東京商工会議所)の初代会頭も務めています。
当時、日本の大きな課題は不平等条約の改正でした。日本政府は世論を理由に欧米諸国に対して条約改正を訴えましたが、「日本には商工業者の世論をまとめる機関がないではないか」と反論されていました。
大隈重信から相談を受けた渋沢翁は、商工業者の民意を結集する場として東京商法会議所を設立しました。
渋沢翁自身も、江戸時代の身分制度の中で地位が低かったともいわれる商人の地位向上を図るために、商人たちが相談して商売が進められる場所が必要と考えていました。
その後、各地に商法会議所が組織され、我が国の商工業の発展に大きな役割を果たすことになります。

渋沢翁のすばらしさは、単に数多くの事業を興したというだけでなく、常に国を富ませ、人々を幸せにする目的で事業を興し、育てていった点にあります。
そんな渋沢翁も後世になって自分の顔が大量の“紙”幣に印刷されることになるとは思ってもみなかったことでしょう。