「伊達者(だてもの)」だとか「伊達(だて)だねぇ」という言葉がありますが、これは伊達政宗(だて まさむね)が家臣を率いて出陣式のため京都に入ったときに、人々が伊達家の粋な軍装を見て言った言葉だとされています。
本当のところはよく分かりませんが、戦国時代の最後に生まれた政宗は、東北の覇者ではありましたが、気概においては天下をにらんでいた男であったと言われています。
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)になかなか臣従(しんじゅう)せず、小田原攻めが終わり掛かったときに、白装束(しろしょうぞく)を身にまとい、磔柱(はりつけばしら)を担いで参陣したと言われています。磔覚悟で来たその度胸に感心して、秀吉は政宗を許したと言われていますが、それでも秀吉は一貫して政宗を警戒していたそうです。
徳川家康(とくがわ いえやす)にしても、徳川幕府を脅かす力を持つ大名として政宗を警戒していたと言われています。
一方、三代将軍、徳川家光(とくがわ いえみつ)からは慕われていたようです。家光は、将軍宣下を受けた後、居並ぶ大名たちを前に「其処許(そこもと)らは、祖父や父と同僚であった時代もあったかもしれないが、わしは生まれながらの将軍である。遠慮はしない。気に入らなければ国元へ帰って戦の仕度をせよ」と高々と言い放ちました。
実はこの宣言をプロデュースしたのは政宗で、政宗は間髪を入れず、しかも大仰(おおぎょう)に「もとより三代将軍家光公に何やら反感がある者がいれば、私が全て退治いたします」と言ったという話も伝わっています。
面白いところでは、「瓢箪(ひょうたん)から駒」という話があります。週刊東洋経済1月21日号に作家の童門冬二(どうもん ふゆじ)氏が書いておられますが、大坂冬の陣は講和を前提とした戦いだったらしく、合戦らしい合戦がなかったそうです。そこで、退屈した大名の誰かが香合わせ(香木をたいて、香りで香木の名を当てるゲーム)をやろうと言い出し、当てた者には、参加者がそれぞれ景品を出そうということになったそうです。
政宗も参加して、腰に下げていた水筒代わりの瓢箪を景品に出しました。大名たちは、「政宗はやっぱり東北の山猿だ」と景品のお粗末さをバカにし、その瓢箪をもらった大名も嫌な顔をしました。政宗はその大名に向かって「あそこを御覧あれ」と指差しました。そこを見ると一本の木に見事な白馬がつながれていました。政宗は言いました。「貴殿にあの馬を差し上げる」と。大名だけでなく他の者もびっくりする中、政宗は澄ましてこう言ったそうです。「古くから申す、瓢箪から駒が出る」。大名たちは言葉を失いました。バカにした政宗はとんでもない風流人だったという話です。
政宗は、家臣の支倉常長(はせくら つねなが)をエスパーニャ(スペイン)やローマに派遣した大名であることを御記憶の方もあるかもしれません。いずれにしても伊達政宗は、なかなか計り知れない人物であったようです。