昨年は、本県ゆかりの梶田隆章(かじた たかあき)東京大学宇宙線研究所長や大村智(おおむら さとし)北里大学特別栄誉教授のノーベル賞受賞が話題となりました。
実は、本県の偉人、渋沢栄一(しぶさわ えいいち)翁はノーベル平和賞候補になっていたそうです。高崎経済大学地域政策学部の吉武信彦(よしたけ のぶひこ)教授がノルウェーのノーベル研究所にある資料から、第二次世界大戦前にノーベル平和賞候補となった日本人の推薦状況を調べ、渋沢翁が1926年に推薦されていたことを明らかにしています。

吉武教授の調査によると、受賞者を選考するノーベル委員会に対する推薦書は2通あり、1通目はハワイ大学の原田助(はらだ たすく)教授から、もう1通は当時の加藤高明(かとう たかあき)内閣総理大臣、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)外務大臣を含む、政界・財界・学会の関係者17名の連名によるものであったそうです。

推薦理由としては、渋沢翁が日本の社会的、道徳的、教育的指導者の中で著名な人物である点に加え、アメリカやヨーロッパ諸国と日本の財界人の相互理解を促進したこと、日米間の友好促進を通じ世界平和に大きく寄与したことが挙げられているそうです。
また、これに併せてアメリカ・スタンフォード大学の初代学長を務めた魚類学者で平和活動家でもあるデイビット・ジョーダン氏、ハワイ大学総長のアーサー・ディーン氏、アメリカ鉄鋼会社会長のエルバート・ゲーリー氏など、海外の著名人からも推薦書がノーベル委員会に送られていたそうです。

このことから、アジアにおける経済外交のパイオニアとして、渋沢翁の世界平和への貢献が海外から高く評価されていたことが分かっております。残念ながら、受賞には至らなかったものの、吉武教授によると当時のノーベル委員会が数多い候補者の中から渋沢翁を選び、選考のための報告書を作成していたことまで判明したそうであります。同委員会が渋沢翁に大いに注目していたことが伺えます。
もし受賞していれば、埼玉初であることはもちろん、日本初、アジア初のノーベル平和賞になっていたことになります。佐藤栄作(さとう えいさく)内閣総理大臣が1974年にノーベル平和賞を受賞する50年前の話になりますので、いかに渋沢翁の評価が世界的に高かったかということがよく分かります。手の届くところにあった受賞と思うと残念です。