吉見百穴(よしみひゃくあな)が出てきましたので、こうなったらやっぱり「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」を改めて紹介したいという気分になります。

行田市の埼玉(さきたま)古墳群には直径が105メートルもある日本一大きい円墳のほか、大型前方後円墳が8基も現存していますが、このことは案外、知られていません。
この円墳の丸墓山(まるはかやま)古墳が忍城を攻めた石田三成(いしだ みつなり)の本陣に使われたことは、映画「のぼうの城」で有名になりましたが、上杉謙信(うえすぎ けんしん)がここを本陣にしたという話もあります。

昭和43年(1968年)に、この古墳群の一つである稲荷山古墳から「金錯銘鉄剣」という日本の古代史にとって極めて資料的価値の高い鉄剣が出土しました。

発掘調査当初は、この国宝となる「金錯銘鉄剣」に銘があることは分かりませんでした。10年後、保存修理のためのクリーニング中に文字があることが発見され、全長73.5センチメートルの鉄剣の表に57文字、裏に58文字の文字があることが確認されました。
銘文には、「辛亥(かのとい)年七月」の文字があります。まだ年号があったのか、なかったのか、いずれにしても干支(えと)で年代を表していたようです。
辛亥は西暦471年説が有力です。いずれにしても4世紀から5世紀にかけての日本の古代史の中で、極めて貴重な文字の史料となりました。

内容としては、この鉄剣を作らせた方の人物名が記され、そして最初の先祖から8代にもわたる系譜が書かれています。そして、本人は獲加多支鹵(わかたける)大王に仕え、代々、大王家の警護を行う杖刀人(じょうとうじん)、つまり、警護隊(長)の家だというような内容であります。

この獲加多支鹵大王は、「古事記」、「日本書紀」では、雄略(ゆうりゃく)天皇と言われています。中国南朝の宋に使いを送って「武(ぶ)」と呼ばれたことなども明らかになっており、中国の歴史書「宋書」(そうじょ)に記述があります。この宋書については、次回、御紹介をさせていただきます。

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