9月7日(木曜日)、「民生委員制度創設100周年記念 第43回埼玉県民生委員・児童委員大会」をさいたま市民会館おおみやで開催しました。民生委員・児童委員の皆様には、日頃から埼玉県の地域福祉の向上に貢献されておられることに感謝の意を表したいと思います。

改めて、民生委員制度を確認しましたら、なんと本県出身の偉人である渋沢栄一翁の功績がそこにありました。
近代日本資本主義の父と言われている渋沢翁は、約500の企業の創設に関わっておられますが、同時に約600の福祉や教育などの社会事業にも尽力されたと言われています。
本県の民生委員制度は、渋沢翁の指導の下で、大正8(1919)年に全国で4番目にできたそうです。渋沢翁は、昭和6(1931)年に民生委員の前身である「方面委員」の全国組織、「全日本方面委員連盟」という組織の初代会長に就任されています。

しかも、生活保護法の前身ともいえる「救護法」の施行にも渋沢翁が尽力されていることも分かりました。この「救護法」でありますが、財政上の理由から実施が先送りとなっていました。昭和5(1930)年11月、風邪で寝ていた渋沢翁のもとを、全国の方面委員など20名が訪れて「政府が救護法を実施するように働き掛けてほしい。」と要望しました。渋沢翁は主治医や家族が止めるのも聞かずに「皆さんのお心持ちは実によく分かる。老いぼれた体でどれだけ役に立つかしれないができるだけの事はする。それが私に与えられた義務だと信じる。」と言ったそうです。
すぐに大蔵大臣と内務大臣に会うため車の支度を言いつける渋沢翁に対し、心配する家族は主治医を通じて「熱のある体で冬の外出は危険だ。」と止めますが渋沢翁は「これがもとで死んでも、20万人の不幸な人たちが救われればそれこそ本望だ。」と言ったそうです。
残念ながら、救護法の施行は渋沢翁が亡くなった2か月後となったそうですが、最後まで困っている人のために力を尽くしたのが渋沢翁であったということです。

正に、民生委員制度も生活保護法も渋沢翁の尽力によるものだということを改めて知ることで、私は埼玉県民の皆さんにもっともっと渋沢翁のすばらしさを知っていただきたいなと思いました。