7世紀、朝鮮半島では、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国が覇権争いをしていました。そのうち高句麗(高麗・こま)から日本に渡り関東各地に居住していた人々が、716年に現在の日高市を中心とした地域に集められ、「高麗郡」が設置されてから今年で1300年になります。同地域ではこれを記念して「高麗郡建郡1300年」の記念イベントが行われ、大変な盛り上がりを見せています。

さて、本日は、埼玉県には「高麗郡」だけではなく、実は「新羅郡」もあったというお話を御紹介したいと思います。平安時代初期に編さんされた歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、758年に僧侶以下74人の新羅からの渡来人を現在の新座、志木、朝霞、和光の地に移住させたという記述があります。その名も「新羅郡」であります。これがやがて「新座(にいくら)郡」に改められ、新座市の名の元になっています。和光市には「新倉」という地名も残っています。和光市を流れる白子(しらこ)川もかつては新羅川だったと言われているそうです。また、渡来した新羅人ゆかりの地名は「白木」や「白城」、「志木」などにも変化していったようです。

百済(くだら)から渡って来た人々もいましたが、これらの人々は都に近い畿内地方(現在の大阪府を中心とした地域)に住み、後発組の高句麗と新羅の人たちは関東の方に住んだようです。かつて新羅の首都であった、韓国の慶州(けいしゅう)のパンフレットには、日本の、それも埼玉の新座、志木、朝霞、和光などに新羅人の開拓地があったことが紹介されています。

渡来から1300年の時の流れがあり、末裔の方々も、もう誰彼ということもなく皆日本人そのものですが、こうした交流の歴史があったことをよく知ることも大事ではないかと思われます。