「教育の森」を読み、志を立てた



◎上田さんは政官業癒着を具体的データで追及して質問回数第一位でしたが、
                       昨今の「疑惑」政局、どうご覧になっています?

 「元を忘れず末を乱さず」と諺にある。しかしいま「元」を忘れ「末」が乱れているわけですね。そして「末」ばかりが叩かれているという感じがしますね。われわれは「末」も乱しちゃいけないんですが。政治をワイドショーで楽しむ人はそれはそれでいいかもしれませんけれども、「もっと大事なことをすべきなんじゃないか」と拒否感を持つ人もいます。国会で「元」の議論もしているんですけれど、メディアに乗らなくなっている。ちょっとつらいですねえ。

◎埼玉四区が選挙区ですが、福岡県大牟田市で育ったんですね。

 不知火小学校、延命中学、三池高校と。大牟田は三池炭鉱、三池争議のあった町です。

 筑豊と違って三池はぼた山がないんですよ。地下を掘ると全部石炭なんです。
純度がいいんです。三井の城下町で、三井東圧とか三井化学とか工場街ができていましたので、炭住とか労働者の杜宅があった。私の家は三井の高級杜宅のある街で肉屋さんだった。東京弁でハイカラな人もたくさんいたんです。

◎こく市井の少年だった。

 小学校の前に労働組合の本部があったので、タイマツに使った青竹を薪割りで割って、小刀で削って竹トンボなんかつくってました、無邪気に。

◎タイマツというのは?

 青竹を切って、それに布地を巻き、たぶん灯油か何かを滲み込ませて掲げていたんでしようね。三井争議のデモに使ったんです。

◎あれは六〇年安保の年でした。

 私は小学校五年かそんなものだったかな。後で知れば、「総資本と総労働」の決戦、労働史の一大エポックだったということでした。

◎小学校の頃に読んだ本は。

 偉人伝のシリーズを二種類、含計二百冊ぐらい読破しているんですよ。野球のゲーリックからリンカーンまで。正直とか努力とか正義とか責任感とか公共心とか、そこで意識したような気がします。

◎家のなかにあった本を?

 いえ、家のなかには一冊の本もありませんでしたから。図書館で借りてきては読みました。

◎遊びの方は。

 有明海で、乳母車に山ほど積んでこられるぐらい貝が獲れました。大牟田の川ではでっかいフナなんか獲れないんですよ。柳川の近くまで電車に乗ってフナ釣りに行きました。あとは山で柿ちぎり。中学では、山岳部に入って山をうろうろしていた。いつの間にか足腰が強くなっていましたね。中学三年生では日曜日にお金を持たず弁当も持たずに、朝から小岱山という六百メートルぐらいの山に登って夕方までに帰ってきたりしました。麓で不良少年がうろうろしているんですよ。それとわざと対決してビビらないように肝試しを兼ねて。

◎不良少年ですか。

 ナイフ持っていたり、たばこを吸っていたりとか。中学三年のアルバムに、一クラスに一人から三人ぐらい坊主頭で少年院で撮った写真が載っかっているんですよ。一緒に記念写真撮れないから。私はわりとカッコ良くてですね、人をいじめているやつがいると「やめろ」と言って、ナイフ持っていりゃ取り上げ、たばこ持っていれば取り上げて五十円あげたりね(笑)。それでいて、彼らからはなんともやられなかった人間なんですよ。

◎そういう少年でしたか。

 三池炭鉱が傾いて、お父さんたちが失業して競馬だとか競輸だとかを暇つぶしにやってたりとか、それで家庭が荒れたんでしよう。昭和三十九年は「第一次非行ブーム」だったそうですね。あの当時、私は「教師のリーダーシップがなかったからだ」と思って、中学校の教師になろうと思ったんですね。

◎どういうことです?

 不良少年を正すことができない先生たちが多いなと思った。弱そうな不良少年には先生も注意をしたりぶん殴ったりするんです。強そうなのにはあんまり言わない。卑怯じゃないかと。不良少年もつきあえばそんなに悪いやつじゃない。兄がよく家を飛び出したりしていたこともありましたしね。ちょっとねじ曲がった人も私の言うことは聞いてくれたので。「私だったら教師できるのかな」なんて思って。

 しかし、高校二年のときでしたか、当時、「毎日新聞」に「教育の森」が連載されました。新書判で一、二年後に本になりました。都合十三巻ぐらいあったんでしようか。

◎村松喬さんが書いたのでした。

 はい、そうです。新聞連載で「教師とその周辺」というようなくだりだったような気がします。教師がいろんな立派なことをやっても浮いてしまうとか、飛ばされるとか、そんな話が書いてありました。「なるほど、そうか」と、私はまた単純で、教師になっても一学級か一学校しか救えないと思ったんですよ。じゃ、全部を救うにはどうすればいいんだ。立派な先生たちが活躍できるような制度環境をつくるのが仕事だと。制度は法律でつくられる。法律をつくるのはどこだ、国会だ。参議院よりも衆議院のほうが優先権があると。これは衆議院議員にならなくちゃいけないのかと、そんなふうに思いまして。

◎なるほどなあ。ほかに本は。

 文学はむちゃくちゃ読んでました。結局、「伊豆の踊子』だとか「野菊の墓』だとかああいう純愛ものしか頭に入らなくて、むずかしいのは入らなかった。日本の文学全集四十八巻をとることにして、家へ楽しみに帰るでしよう。「きょうは第一回目の配本だ」と。おかしいなあ、来ないなあと思って電話かけたら、「いやあ、持っていったんですけど、お父さんから『要らない』って言われました」なんて一言ってね。親父に文句言って、「自分の小遣いで買うんだから!」って言って。私が読み始めて一家中、読書好きになりました。

 カメラ屋の家の友だちのお姉さんが河出書房の「世界文学全集」を持ってましたので、それ、お姉さんから借りてきて読みました。『赤と黒』とか。授業中は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んでましたね。『国盗り物語』なんかわくわくしましたね。何もないところから一国を盗っていく斎藤道三の魅力。何か「ひょっとしたら自分にもできるのかなあ」なんて勝手に思ったりした。あとはバレー部を三年間。OB会を組織したりですね、来る日のためにと思って(笑)。

◎で、大牟田を後にして上京して法政大学に。

 そのカメラ屋のお姉さんも行っていたので受験しましてね。初めて東京に来たんです。高円寺、阿佐ケ谷あたりに下宿した。よく下痢してました、東京の水が合わなくて。

◎どんな時代でしたかな。

 昭和四十二、三年で、羽田事件がありました。新宿騒乱事件もありました。

◎団塊世代の余共闘運動、反戦運動の激しい時代ですね。上田さんはどんな・・・・・・。

 私は弁論部に入ったんです。中核も革マルもいましたね。右翼もいるでしょう。革マルから聞くと「なるほど」と思うし、中核から聞くと「うん」なんて。「でも、何かあいつら暗いし、いやだな」と思いました。悩みました、何していいかわからないので。

◎弁論部はどんな活動を?

 学習会と発声練習、演壇練習。外堀の土手っぷちに立って大きな声を出す練習ですね。しかし学園紛争が始まって、なんとなく「弁論大会無用論」が出てきました。「技術を学んで何になるんだ」と。「大衆へのめくらまし」じゃないかと。弁論大会があちこちで中止になりましたね。われわれは技術の鍛練をし損なったグループです。

◎でも、いま弁舌は見事なもんじゃないですか。

 声はいいといわれます。

◎キャンパスでセクトの争いがあったでしよう?

 新左翼が民青を吊るし上げたりして。私が下駄履いて脇へ行って「やめろ」と。「たった一人をいじめてどこがいいんだ」ってね。けれども、私は一回もやられていないんです。「あいつはしょうがねえやっちゃ」とヘルメットの連中も知っていまして(笑)。しかし新宿でやくざに一度ぼこぼこにされたことはあったな。

 セクトから誘いも来ました。議論すると大体負けちやう。で、悔しいから「こっちは悩んでいるんだ。悩んでいるもののつらさをわかるか」と開き直ってました(笑)。黒田寛一を読めば「なるほど」なんて思っちゃうし、宇都宮徳馬の『海洋国家論』を読めばまた「なるほど」と。読めば読むほど迷う。べ平連なんかには行きましたよ。幅が広いですからね。何もしないのもおかしい。みんな悩んでました。

◎ほかの本は。

 高橋和巳の『邪宗門』は読んで寝られなかったですね。三浦綾子の『塩狩峠』も感動しました。自己犠牲の物語です。感動しやすい体質なもんで、どうもそういうのに憧れるんです。
 
弁論部の顧問の大沢功先生にはお世話になりました。試験で「マル弁と書くと『優』になる」ということでした。マル弁、つまり弁論部。すると弁論部でないのもマル弁と書くから、弁論部リストを先生に届けたりしてね。

 それで私は弁護士から政治家にと思っていましたから、法律の本を読んで何か司法講座などで勉強したんですけども、ちょうどその頃、恋愛してまして、ノリが悪くてですね(笑)。たまたま弁論部で、地方自治をテーマに議論した。それで、大学院では地方自治をやりたいなと。「シビルミニマム」の松下圭一先生が法政におられて、松下先生の本はみんな読みました。でも大学院の試験は、法政に落ちて早稲田に入れた。

◎早稲田の大学院では。

 内務省で鈴木俊一・元東京都知事の一年先輩で、地方公営企業金融公庫の総裁もやっておられた荻田保という方が大学院に講義を持っておられて、その研究室に入ったんです。いちばん兄弟子が寄本勝美教授です。

◎ゴミ問題の権威ですね。

 荻田先生は官僚出身学者です。これはまた良かったですよ。自分なりにシビルミニマムの思想を一生懸命勉強した上で聞きますと。「役人は役人らしく」「役人は役人に徹しなさい」と思想もすっきりしていましてね。「五万人の町のことはその五万人で決めればいいんだ。それを他の人が決めちゃいかん」と、非常にクリアな。

◎「他の人」というのは「中央官僚が」という意味かしら。
                   内務省統治はいわば中央集権の最たるものだったわけだけれども。

 ただ、先生には牧民官の思想もあったのでね。他の省庁から守ろうという意識がありますからね。

◎なるほど。あれは天皇制官僚のいいところだったかな。

 だから私はいまもずうっと全国のまちづくり、むら起こし運動もやっているんですよ。「浅草おかみさんの会」とも付き合っていますし。私、地域資源活用機構というのをやっていて、例えば全国六つの「川上村サミット」の事務局も引き受けている。長野県の川上村は日本一の村ですね。人口増えるんですから。嫁さん百パーセント、県外から来る。沖縄の北部広域圏一市十一町村の事務局もやっています。名護市長の岸本さんとも長い付き合い。「ツール・ド・オキナワ」なんかもやってね(笑)。

 国を守るのは自衛隊だけじゃない。これらの町村が小さな人口で大きなエリアを守っているんです。森林、海岸線、離島、こういうものをもっと大事にすべきだ。そういう価値を評価して所得保障してもいいんじゃないか。競争の原理だけで片づかないものがある。

◎さて、それからは。

埼玉県の所沢の山の中に引っ込みまして小中学生の学習塾も開いてました。大学までの学資は親に出してもらっても、大学院は自分でと思ったので。

◎それから埼玉との縁が。

 ええ。中学のときに夢見た教師もやったわけです。つい先頃、メールが来ました。四十一歳になったそのとき教えた生徒でした。「あのころ、政治家になると言っていたのをちゃんとやってます」ってメールを返した(笑)。

 岩波の『世界史』と『日本史』、全部で五十巻を七万二千円で古本屋に売って敷金、礼金にして塾の部屋を借りたんです。子どもが集まらないから町内会長に四、五人声をかけてもらいましてね。子どもたちに「つまらん勉強かもしれんが、知識はむだにはならん。これを突破しないことにはその次に行けないんだから無理してでもやれ」と。出来の悪い子は日曜の朝八時に来て夜十一時に帰った。「この先生なら教えてくれる」と通信簿が一、二ばかりの子どもがたくさん来ましたよ。

◎それから政界に乗り出した。

 新自由クラブの政策スタッフです。大学院の同期生が河野洋平事務所にうろうろしていたんです。それで私を推薦しましてね。私も「杜会党にもなれない、自民党にもなれない。新自由クラブ、これだ。私の基本的なスタンスだ」と水が合いまして。

◎それから二回、三回と選挙に立候補して落選でした。そのうち新自由クラブも解散してしまいました。

 それでもかなりの票を取って、金のない新自由クラブとしては「立派だった」と言われたものです。

◎さて政界大変動で自民党が分裂して新生党ができて、上田さんはそこから当選した。なぜ新生党から?

 新自由クラブの失敗で、ひ弱なリーダーがいやになっちゃったんです。力と理想と両方がないと。

 私の「この一冊」というと『史記』です。重耳は放浪歴二十年にして日の目を見ました。私は当選まで十年と思っていたのですが、予定より三年遅れました。

◎対談後記◎

 最近の上田清司氏といえば、鈴木宗男氏の証人喚問で「北方領土不要発言」の外務省内部文書を示して驚かせた。これまで氏の鋭く裏付けのある追及がどれだけ政府を揺るがしたか、いまさら言うまでもない。

 不良少年に一目置かれた氏が当初の志を実現していたら熱血先生になっていたに違いない。「教育の森」を読んで政治家の道を歩んだいまも、熱血がたぎっているのがわかるではないか。(早野)

 

朝日新聞社「一冊の本」 
2002年5月号より抜粋 
PHP出版社「歴史街道」 
2000年10月号より抜粋 



 史記

 司馬遷著 小竹文夫・小竹武夫訳 全八巻

         ちくま学芸文庫 本体1200〜1400円


団にあって人問はいかに生きるか-------------、その答えは、歴史のさまざまな事象のなかに存在しています。学生のころから、自ずと歴史の本を繕くことが多かった私は、そこからいろんなことを学んできました。

 たとえば、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』。議論をするときは相手をあまり理論で追い 詰めてはいけない、恨まれるだけだから適当に逃がしてやるほうがよい、そんなことを学びました。また、同じ司馬作品の『関ケ原』は、人問が基本的に利害で動くこと、しかし、ときどき理想論に走る人のいることも教えてくれています。

 実際に生きてきたなかで学んだこともたくさんありますが、それを復習したのは歴史の本です。あるいは予習といってもいいかもしれませんが、これまで私は多くのことを本で疑似体験してきました。予習、復習を書物で行ない、それを実際に体験することでマスターしてきたような気がします。

 そうした書物の「決定版」といえるのが、司馬遷の『史記』です。日本と違って王朝交替がひんぱんに起こっているし、スケールも大きくダイナミック、人間のあり方のあらゆるひな形がそこに描かれているといっても過言ではありません。

 なかでも私にとって印象的なのは、春秋時代、晋国の重耳。国を出て、一九年問も各国をわたり歩いたのちに即位し、覇者となる「放浪の王子」です。日本でいえば、足利尊氏でしょうか。戦さ下手で敗けてばかりでも、最後は勝つ。しかも敗けながらも、
すぐれた人材や歴戦の勇士だけは増えていく。本当に不思議な人物です。

 よほど、のんびりした性格だったのか、さもなければよほど大物なのか。私自身、衆議院に初当選するまで一〇年かかりましたが、たとえ不遇な時代がつづいても、こんな人がいると希望が持てます。

 一般に、すべてがそろっている人問は嫌われがちです。八ンサムで金持ち、背は高く、家庭環境にも恵まれ、人格者だったりしたら、「何だこいつは」と人間誰しも思ってしまうのではないでしょうか。重耳はその点、穴だらけの人問だったといえます。

 それはもしかしたら、自分自身を韜晦しつづけていたのかもしれませんが、周りの目には、重耳の周囲の「人材」は多いけれど、本人がぼうっとしているから「危険人物」とは映らなかったにちがいありません。だからこそ彼は、生き延びることができたのでしょう。才気あふれる人は人の恨みを買いやすく、失脚しやすいものです。

 その一方で重耳には、下にすぐれた人材が数多くいましたから、保険をかけるだけの価値がありました。ひょっとしたら、ことをなすかもしれないと思わせるだけの人たちが、彼を支えていたわけです。

 油断させる雰囲気を持ちながらも、しかし頼りになる、この二面性を持てばよいことを、重耳の人生は雄弁に語ってくれているのではないでしようか。

 『史記』には重耳以外にも、あらゆるタイプの人問が登場します。その一人ひとりが私にとっては貴重な先生なのです。