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 先日、埼玉県医師会の副会長を務めておられます奥野豊(おくの ゆたか)先生から小冊子をいただきました。小冊子には「秩父外科医会四十周年記念誌別冊」とあり、タイトルは「一枚の写真から-森鷗外と武島務-」とありました。私もこういう話は大好きですので興味深く拝見しました。

 通説では、森鷗外(もり おうがい)の代表作「舞姫」の主人公のモデルは、当時ドイツに留学していた森鷗外こと森林太郎(もり りんたろう)自身と言われていますが、実は秩父市(当時は秩父郡太田村)出身の武島務(たけしま つとむ)がモデルではないかという小論をまとめたものでした。
 奥野先生によれば、武島務の人生が「舞姫」の主人公に投影されているということを初めて報告したのは医師の西田芳治先生(故人)とのことです。西田先生は医史学に造詣が深く、奥野先生と同じく秩父市内で開業医をされていた方です。奥野先生は、この小冊子の中で西田先生が武島務を発見した経緯を詳しく紹介しながら、「舞姫」のモデルをめぐる推論や武島務の生涯について綴(つづ)っておられます。

 「舞姫」のモデルは、実は秩父出身で当時ドイツに留学していた武島務であったという話は大変楽しいですね。この小冊子には、当時ドイツに留学していた日本の若い医師たちが一堂に会した際の写真が残っています。この写真の19名の医師たちの中には、若き日の森鷗外や北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)なども写っています。この若者たちの多くは、後に日本の医学界の先駆者になった人たちです。この写真には武島務も写っています。

 この武島務はドイツに私費留学したのですが、残念ながら故郷からの送金が届かず、ついに下宿代なども払えなくなり、家主から訴えられてしまいます。このことが日本国の名誉を軽んじたということで帰国命令が下ります。しかし、武島はドイツに残留する道を選び、その結果三等軍医の職をはく奪されるなど困難な境遇に陥りました。それでも武島はドイツで医学の勉強に励みますが、最終的には心労が重なりドイツのドレスデンで病没してしまいます。

 「舞姫」は、主人公である太田豊太郎がドイツ人の踊り子との恋に落ちるものの、留学生仲間の中傷から役人の誤解を受け、官位をはく奪されるなどの大変な苦難を味わい、結局は踊り子との恋を諦めて日本に戻るという悲恋の話です。

 西田先生は、官位をはく奪されるという不遇な状況に遭ったのは鷗外ではなく武島であったこと、主人公の「太田」は武島の出身地「太田村」からとったと推論できること、そして武島務の境遇に鷗外が同情を寄せていたことがその日記から読み取れることなどから、「舞姫」の主人公のモデルは武島務ではないかという説を導かれたわけです。
 私にはこの推論を検証する力は持ち合わせておりませんが、「舞姫」のモデルは埼玉県秩父郡太田村出身の武島務だったのではないかという世間の意表を突く説を大変楽しく拝見しました。

 今後更に検証がなされて、「舞姫」の主人公は秩父出身の人であったという説がもっと広まることを願ってやみません。

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