さきたま古墳から出土した金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)が作られた年代については471年ないし531年などの説があります。

3世紀半ばの『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』以降、中国の史書に日本に関する記述が無かったのですが、5世紀になると再び「倭国(わこく)」として日本の記述が現れます。
その5世紀後半にまとめられた宋王朝(420年~479年)の正式な歴史書である『宋書(そうじょ)』に、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という倭の5人の王が当時、中国の中央を支配していた宋に使者を送っていたことが記録されています。
『宋書』に出てくる倭王の名は、日本の天皇の名前と全く異なっており、どの天皇を指すのかということについては様々な説があります。研究者の間では、讃は応神(おうじん)天皇、仁徳(にんとく)天皇、履中(りちゅう)天皇のいずれか、珍は反正(はんぜい)天皇、済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略(ゆうりゃく)天皇との説があるようです。
昨日のブログで紹介した金錯銘鉄剣に記されている獲加多支鹵(わかたける)大王は武王と称した雄略天皇であると言われています。
株式会社青春出版社発行の『図説 地図とあらすじで読む古事記と日本書紀』や株式会社岩波書店発行の『新版 日本史年表』に掲載されている古墳時代の年表を見ると、当時の倭国が宋という国の後ろ盾を得て朝鮮半島での地位を確かなものにしようとしていたことが分かります。参考に年表を付しておきます。

倭の五王外交史
中国 西暦 事柄

421

倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から除授の詔をうける

425

倭王の讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる

430

一月、倭国王、宋に使を遣わし、貢物を献ずる

438

倭王の珍、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める
四月、宋の文帝、珍を「安東将軍倭国王」とする

443

倭国王の済、宋に朝貢して、「安東将軍倭国王」とされる

451

倭王の済、宋から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。
また、上った二三人は、宋朝から軍郡の称号を与えられる

460

十二月、倭国、遣使して貢物を献ずる

462

三月、宋の孝武帝、済の世子の興を「安東将軍倭国王」とする

477

十一月、倭国、宋に遣使して貢物を献ずる

478

宋の順帝、倭国王の武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする

参考:「新版 日本史年表」(株式会社岩波書店)
「図説 地図とあらすじで読む古事記と日本書紀」(株式会社青春出版社)